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zoom RSS サンドロ・ボッティチェルリとレオナルド・ダ・ヴィンチ

<<   作成日時 : 2007/08/05 16:39   >>

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ボッティチェルリとダ・ヴィンチ。

  二人のたどった数奇な運命とはどんなものだったのか。

 その前に、コンピュータで分析&再現したモナ・リザ(ラ・ジョコンダ)とダ・ヴィンチその人の肉声がyou tubeで公開されてたのでアドレス付けときます。
 http://www.youtube.com/watch?v=Rz43CVDvLVg
Leonard da vindi voiceと Mona Lisa voiceで聞けます。

まずはボッティチェルリ。

ボッティチェルリの顔
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 彼の絵にはどことなく「メランコリック」な感じが付きまとう。しかし、初めからそうだったわけではない。

 若かりしころのボッティチェルリは、ルネッサンス期の最高にして、最大のパトロンのロレン ツォ・メディチが詩にあらわすほど、とっても陽気で、明るい人間。
 華やかな繁栄、豊かなフィレンツェ絶頂期を形にしたような人物だったらしい。

 ボッティチェルリは、若いとき、ヴェロッキオという、当時(15世紀初め)のフィレンツェ最高といわれ、メディチ家からもっともたくさん創作の依頼を受けていたクラフトマン(あえてそう表現)の工房で創作をしていた。



ヴェロッキオ<<ダヴィデ>>
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 そして、彼が22歳のとき、二つの「人生」が交差した。
 後に「万能の天才」と呼ばれることになる、14歳のレオナルド・ダ・ヴィンチが、ヴェロッキオの工房にやってきた!
最も若く、才能にもあふれるレオナルド。しかし、私生児という事実は回りに知れていた。そして、工房で注目されていた、明るく陽気なボッティチェルリ。二人はどのようにしてお互いを見つめていたのだろう・・・。
  
この時代の補足として、ヴェロッキオは若く美しいレオナルドをモデルにして、このダヴィデ像を彫ったといわれ、さらには、ヴェロッキオ工房作の「キリストの洗礼」において、伝説では、弟子のレオナルドが描いたあまりにすばらしい左の天使の絵のせいで、その技術の差に打ち負かされた師のヴェロッキオは以後、筆を折ったのだそう。



 
ヴェロッキオ、ダ・ヴィンチ他<<キリストの洗礼>>
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 ついでに、この絵の背景も、レオナルドの手によるものと言われています。

 さて、その後は、それぞれ、独立してメディチ家のパトロンの元に絵画を制作していきます。

 しかし、面白いことに、ボッティチェルリとレオナルドは、ともにその才能をロレンツォに買われながらも、まったく対照的な絵画のスタイルを確立していく。

 ここからは、二人の「人生」がまた別れた、ということで、別々に・・・。






      1.ボッティチェルリの「春」
 ジョルジョ・ヴァザーリ
<<ロレンツォ・メディチ>>

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 華やかなフィレンツェのもとに、華やかに咲いた花、ボッティチェルリ。
 彼は、まるでロレンツォ・メディチとは二人三脚のようにして、その人生を歩んでいた。

 豪華王、とまで呼ばれたロレンツォ・メディチ。

かれは古代ギリシアの人間の美しさ、学問のすばらしさを讃えており、みずからも深い古典の教養を持っていた。

 そして、「プラトン・アカデミー」なるグループを結成し、画家、詩人、文人などと、さまざまな文学的、哲学的、芸術的議論を交わす。 




サンドロ・ボッティチェルリ<<プリマヴェーラ(春)>>
  
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 この集まりに、ボッティチェルリはずうずうしくも(?)呼ばれてもいないのに、我が物顔で、あたかも会員のように、もぐりこんでは議論を交わしていた。
 その中の詩人の一人、ポリツアーノの詩「ヴィーナスの王国」をもとにして、かの有名なボッティチェルリの「春(プリマヴェーラ)」は誕生した。
 この絵はロレンツォの要求や、ロレンツォ好みの要素がたくさん入っている。
 フィレンツエを描いた、ともいわれるこの絵。
 精密に、鮮やかにちりばめられた200種類にものぼる花々は、どれもフィレンツェに咲く花なのだそう。

 そして、左にいる男。彼の名は時の神、メルクリウス。天を指す棒は、冬の終わりをつげ、春を呼んでいるのだそう。そして、暗殺された弟、ジュリアーノ(しかもフィレンツェいちの美男子とうたわれたジュリアーノ)に似せるようロレンツォからいわれていたもの。
 彼が「ルネサンス」の流れを汲む、いいかえると「古代復興」の流れを汲んでいた「時代の画家」ということは、かれがプラトン・アカデミーに属していたことや、ロレンツォ好みの線を強調する画風に徹したこと、古代の「理想化された風景」を描いていたことからもわかる。 




   2.レオナルドの「冬」
 
 一方、レオナルドは、ロレンツォから、その才能を認められはしていたものの、どうももてあまされたよう。

ダ・ヴィンチ<<受胎告知>>
 
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 華やかなフィレンツェの時代にあって、彼の初期の作品のひとつ、「受胎告知」にみられるような質素さ、そして、影によって形を浮かび上がらせるような技巧(スフマート)はロレンツォの好みに合わなかったのかもしれない。さらに、この「受胎告知」に見られる、「科学的で写実的な」風景――それがレオナルドの理想、あるいは空想的風景だとしても、あたかも現実感を持つ精密さをもつ、という意味で――は、レオナルドが始まりといってもよい。

 これは、さっきのボッティチェルリの「受胎告知」に見られる「理想化された」ある種メルヘンチックといってもよい風景と見比べてみるとわかりやすい。
 ボッティチェルリ<<受胎告知>>
(クリックして、拡大できます。風景の陰影のつけ方は、本当に違う)
 
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 15世紀の二つの流れ――「古代復帰」と「自然復帰」。
 「ルネサンス」は二つの「回帰」が脈々と流れていた。
 風景とはなにか、ということに関して、レオナルドはこんなようなことをいっている。

 「絵画の内容となるあらゆるものを等しく愛さない人は万能とは言えないだろう。
 ・・・ちょうどボッティチェルリが、かかる研究は無駄だ、なぜなら、とりどりの色をいっぱい含んだスポンジを壁にちょっと一投げすれば、壁の上に斑点がのこり、そこに美しい風景が見えるといったように。
 ・・・
 かかる画家は貧弱きわまる風景を書くのである」



 レオナルドは、さっきも言ったように、ロレンツォにとってはどう扱ってよいかわからなかったよう。

 ロレンツオは、かねてから仲の悪かった法王シクストゥス4世と、仲良くなるために、画家の大集団をローマに送って、礼拝堂の絵を描かせた。
 そのときの頭領がボッティチェルリ。
 しかし、レオナルドは、大集団であったにもかかわらず、そこには招かれなかった。

 さらに、「プラトン・アカデミー」にも一度も招待されることはなかったのだそう。
 加えて、レオナルドは、その手記のなかでメディチ家を罵倒する内容を書く。

 「私が学者でないから、ある威張り屋は私のことを文字を知らぬ人間だと断ずればそれだけで私をもっともらしく非難できるとお考えのようである」と。
 
 そして、こう書き残している。

 「メディチが私をつくり、私を破滅させた」と。

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 かれは、1482年、『フランチェスコ・スフォルツァ騎馬像』を彫刻するためにミラノにやってきている。(ヴァザーリは1494年に自作の馬の頭蓋骨の形の楽器を吹くためにはじめてミラノに来た、としているが)
 それはロレンツォが派遣した。
「絵画」を最高の芸術と考えていたレオナルド。しかし、この当時、フィレンツェ市民、とりわけロレンツォはボッティチェルリの方を好んでいた上、天下りのごとくに派遣されたミラノ。
 彼がフィレンツェに一生を置かなかったのはこの仕打ちにもよるのではないか。

 (もちろん、政治的、社会的流れに起因するところが大きいし、仕事がなかなか見つからなかった結果、最終的にフランスに渡った、というところが妥当だろうけど・・・)

 しかし、皮肉にも、彼はミラノで画家としても大成功を収める。
 そして、かの有名な『最後の晩餐』をここ、ミラノの「サンタ・マリア・デッラ・グラーツィエ教会」に描いた。
 その後、フィレンツェに戻ったレオナルドだったが、(その名声はすでにフィレンツェにも届いており、彼は、フィレンツェ市民から、当代一の画家として迎え入れられる。
 しかし、最後はフランスに王の手厚い保護の元、フランスで生涯を終える。
晩年、かれはボッティチェルリにこう宛てた。

「サンドロよ、私は成功しなかったのだ」



  3.ボッティチェルリの「冬」

 話はまたボッティチェルリに。
 ときはロレンツオの死ぬちょっと前。
 
サヴォナローラの顔
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 このころ、フィレンツェでは、サヴォナローラという修道士がフィレンツェの贅沢・豪奢趣味を糾弾する演説を始めていた。
 「虚飾をやめよ!フィレンツェよ、悔い改めよ!メディチ家の実態は独裁制だ!」
 初めは一蹴していたようなフィレンツェ市民。
 しかし、ロレンツォ豪華王が、持病の通風の悪化によって、急死する。
 50にもなっていなかった。
 
 加えて、フランス軍がフィレンツェに侵攻したことをうけ、サヴォナローラはそれを予期していたといううわさが流れ、フィレンツェ市民は急にサルヴォナーラの声に耳を傾けるようになる。
 そして、フランスの侵攻に対応できなかったということから、サヴォナローラを初めとするフィレンツェ市民はメディチ家をフィレンツェから追放する。

 フィレンツェの政治の権力は、サヴォナローラが握った。

 豪華な装飾品は破壊され、芸術品は燃やされた。
 一説には、フィレンツェの芸術の3分の1を破壊したとまでいわれている。

 サヴォナローラに嬉々として絵画を差し出し、火にくべた芸術家の中に、ボッティチェルリその人がいた。
               ボッティチェルリ<<誹謗>>
 
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 思想も、活動も、サヴォナローラに傾いていったボッティチェルリ。
 彼の『誹謗』はこの時期に描かれた。
 さまざまな悪徳たちに囲まれ、真理(裸で天を指す女性)は当事者たちから遠いところにいる。
 不安、あからさまな道徳性がアレゴリーによって、示される。

 しかし、サヴォナローラの時代は続かなかった。 

 彼の厳しすぎる体制につもりつもっていた不満が、対立するフランチェスコ会の「火の中を歩いてみろ」ということができなかったことで一気に爆発。
 彼は1498年、絞首刑と火あぶりの刑によって、死ぬ。

 そして、フィレンツェ市民は、メディチ家を、歓喜とともに呼びもどし、フィレンツェの実験は再び、メディチ家が握るようになる。

 彼に心底ほれ込んでいたボッティチェルリは彼の死後、ほとんど絵筆を執ることはなくなった。
 老いた後は「二本の杖でフィレンツェを徘徊」するようになった、廃人のように伝えられている。

 皮肉にも、レオナルドはフィレンツェに名声を得て戻っていた。
 彼は2日間だけアトリエを一般公開した。
 その中にサンドロの姿があったそう。

 皮肉な運命の二度目の交差。
 彼は「天才」を前に、何を思ったのだろうか。




 二人の「天才」と詠われた、そして、ライバルでもあった巨匠。
 どちらの人生も明らかになっていないなぞが残されている。

 しかし、謎は、謎のままだからこそ面白いのかもしれない。
 「真理こそ時のひとり娘であった」
 美しい娘こそ、美しいベールが似合う。

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内 容 ニックネーム/日時
やっと自分が探していた絵が見つかりました。テレビでちらっと見ただけで気に入ったのですが、画題がわからないのでネットでも探しあぐねていたところでした。大変に感謝しています。やっと、「誹謗」と対面することができて、とてもうれしいです。
明広訊
2012/10/26 02:44

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